2007年3月22日木曜日

聖教新聞について

かれこれもう20年以上、聖教新聞を購読している。
学会の友人から勧められたのだが、池田氏の指導や提言等大変納得のゆく内容で、いい新聞だと思ってきたからだ。

その聖教新聞がずいぶん変わったなと感じるのだが・・・

最初に?と感じたのは、宗門に対する座談会記事。外部の私にとってこの手の記事にはもともと興味はない。お家騒動のような認識で、関係者にとってはまあ重大な問題ではあろうと眺めていたのだが、しかしまあ、この記事がいつまで経っても終わらない。既に10年以上?同じ内容が何度も何度も、これでもかこれでもかと一紙面を埋めている。正直、しつこいなと感じる。ご発言も品がよいとは言えない。恨み節のようにも見える。よっぽど記事が無いのかしら?

それと池田氏の発言(実際には担当記者が書いていると友人は言っている)が、微妙に、時には明らかに変わってきた。以前のものとは辻褄合が合わなくなっている。しかも根本的な次元で。

更に新聞社としての姿勢として理解できないのが、過去の記事の閲覧を廃止したことだ。
新聞社はその発言に責任をもつ。従っていつ、どこで、どのような発言があったかが常時開示されているのが、責任ある新聞社の良識であり、常識である。
ところが、聖教新聞はこれを辞めた。縮刷版を廃止したのだ。
そもそも一宗教団体の機関紙であるのだから、そんなものかとも思うが、一方、これまで「社会に開かれた、大新聞」と言ってきたのだから、それはやはり合点がいかない。

私なども記事を読みながら、「以前はこれとは全く逆のことを言ってたよなあ・・・」と思うこと度々であるわけだが、ではどこで、いつ言っていたかということを調べようにも調べるすべも無い。HPを覗いたところで、読者からの発信を受け付ける窓口も無い。全然開かれていないなあ・・・

ということで、20年来続けてきた聖教新聞の購読をこの3月で辞めることにした。
しかし創価学会にはまだまだ興味があるので、聖教新聞はたまには読もうと思っている。
そのとき役立つのが「ご自由におとりください」「正義と希望の新聞」という例のプレゼントだ。ここ数年やたらと目に付くようになった。これも大きな変化だ。5~6部が常時ポストに入っているものをよく見かける。あれは余っているのかしら?私としてはありがたいが、しかし殆ど減ってないような・・・。資源の無駄使いということも感じるのだが・・・

ということなのですが、さて、学会員さん。学会員さんのお考えを聞かせてください。

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